体力づくりのために朝音楽を聴きながらジョギングをしています。
(といっても二日前に始めたばかり。いつまで続くことやら)
涼しい風を受けながら、並木道――近くにしあわせの村があるのです――を駆け抜けるのは気持ちのいいもの。
おとついよりも昨日の方が長く、昨日よりも今日の方が長く、走れるようになっていくのをはっきりと体感します。
ま、今まで運動してなかったので、伸びしろがまだあるといったとこでしょうが。
(といっても二日前に始めたばかり。いつまで続くことやら)
涼しい風を受けながら、並木道――近くにしあわせの村があるのです――を駆け抜けるのは気持ちのいいもの。
おとついよりも昨日の方が長く、昨日よりも今日の方が長く、走れるようになっていくのをはっきりと体感します。
ま、今まで運動してなかったので、伸びしろがまだあるといったとこでしょうが。
ジョギング自体は楽しい。とても楽しい。汗をかくのは気持ちがいいことだ。
しかしその途中で、毎度毎度のこと――人生で幾度過去のような体験があったように思う――ながら、自分の小心っぷりにほとほと愛想が尽きたりもする。
それは、ジョギング中の呼吸音。
一人で走っているときはいいんですが、前からおじいさんやおじさんが走ってきてすれ違うとき、前を歩いているおばあさんを追い抜くとき、自分の呼吸音が相手に聞こえてるかと思うと恥ずかしくなって、早く抜き去ろうと足取りを速め、ペースを乱し、結果疲労がどっと出て歩き始める……こんなことが二回ほど(三回目以降はこれみよがしに呼吸音をアピールした。聞こえるか俺の鼓動、みたいな感じで)。
正直、ジョギングしてるんだから、呼吸が荒くなるのは当然っちゃ当然だし、呼吸が荒くならないで走ってるやつがいたらお目にかかりたいもんなんだが、それでも周りの人にゼエハアいってるとこを聞かれるのはなんかヤダ。これは僕の過去の体験に起因しているんだろうとは思うが(あれは小学校のころだった……詳しくはまたいつか話したい)、結局、僕は(誰にも迷惑をかけず)静かに生きていたい人間なのだ。
図書館でまわりの人の迷惑にならないよう、静かにしておく。そんな感覚で僕は、日常生活を温厚に過ごしてきた。集中している人間の気を紛らせたくないから。
ところで。
先日「視線のエロス」(フランス 1997)という映画を見た。
不倫の話なのだが、これの主人公がすごい。
22歳の愛人に彼氏がいることを聞いたら、「別れてくれ」といい、
愛人が「中途半端は嫌だ。だから奥さんと別れて」といったら「妻は君には関係ない」といい、
家に押しかけ、「入れないと騒いで近所中を起こすぞ」と愛人を脅し家に入ったり、
愛人が「妊娠したらどうする?」と心配そうに尋ねたら、「しやしないさ(だから生で)」と根拠なく言い放つ。
妻に浮気がばれたときは、愛人に「君を愛しているが、今は妻と一緒にいたい」
愛人の恋人に浮気がばれ、愛人が主人公に別れ話を持ちかけたとき、「僕はどうなる?」
愛人が主人公の下を離れた後も、たびたび電話をかけ、「愛している」と留守電に録音し、
最後は「愛はつかの間。情熱はすぐに冷める。君といた日々がセピア色の追憶になることを恐れる」などと手紙に書き、
返事はいらない、と一方通行に思いのたけをぶつける。
はっきりいって手前勝手だと思うのは僕だけだろうか。
もし世界中の全ての女性がこういう男を望んでいるのだとしたら、僕は一生独身をつらぬくだろう。
正直ここまで手前勝手な人間になることは僕には出来ないし、なりたいとも思わないし、つばを吐きかけてやりたいとさえ思う。
(僕にとって)これは最低の人間像だ。
しかし。
「世の中は、手前勝手な人間が動かしていく」(ここでいう手前勝手とは、自己主張する人間のこと。自分の欲望や意志を貫いていく人間のこと)
これはおそらく、否定しようがない事実だと思う。
まわりに迷惑をかけないように気を配って、まわりのことだけを考えていて確固たる成果をあげる人間なんて、ほんの一握り……いや、ほんの一握りもいるかどうかわからない。
上記の映画だって、愛人を愛するがゆえに、愛を貫いたがゆえに、あーゆー言動に出たとも考えられるのだ。
そして得てして、手前勝手な人間の生き様は絵になる。彼らの人生は人の心をうつ。
だから何がいいたいのかと言うと。
今、まわりのことばかり考えて、自分の可能性を押し殺している人たちは、“もっと手前勝手に生きるべきだ”ということだ。(自分を含めて)
おそらく彼らは、自分の声に自信が持てないのだろう。(僕は、自分の声に自信が持てなかった!今も……だけどね)
確固たる信念(目指すもの)がないから、何をしても上手くやれないから、まわりに迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいいと考えているのではあるまいか。
正直言って、その考え方はとても高貴なものだと思う。みんながまわりの人間のためを思って、まわりの人間に尽くして生きていけば、人はきっと共存することができる(日本、韓国、中国、全世界全て)のだから、「迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいい」という考え方は、社会が平和に共存していくためには最も必要な意志のひとつに違いない。
けれどもそうして社会に尽くしても、僕たちの名前は後世には残らない。(生存証明は、できない)
何世紀も先まで僕たちのことを覚えていてくれる人は、誰もいない。たとえ家族であっても。
(僕はひいひいばあちゃんのことをまったく知らない)
だから僕たちが自分の存在した証を残すためには、世の中で声を大きくして「僕はここにいるよ!」と叫ばなければならない。
まわりの人の集中を切らさないよう、黙りこくって、気を遣うのではなく、手前勝手に、身勝手に、高らかに叫ばなければならない。
CRY MORE!!
ようはもう思い切り、手前勝手に生きてみようぜ。ということ。
自分へのいましめだっ。
しかしその途中で、毎度毎度のこと――人生で幾度過去のような体験があったように思う――ながら、自分の小心っぷりにほとほと愛想が尽きたりもする。
それは、ジョギング中の呼吸音。
一人で走っているときはいいんですが、前からおじいさんやおじさんが走ってきてすれ違うとき、前を歩いているおばあさんを追い抜くとき、自分の呼吸音が相手に聞こえてるかと思うと恥ずかしくなって、早く抜き去ろうと足取りを速め、ペースを乱し、結果疲労がどっと出て歩き始める……こんなことが二回ほど(三回目以降はこれみよがしに呼吸音をアピールした。聞こえるか俺の鼓動、みたいな感じで)。
正直、ジョギングしてるんだから、呼吸が荒くなるのは当然っちゃ当然だし、呼吸が荒くならないで走ってるやつがいたらお目にかかりたいもんなんだが、それでも周りの人にゼエハアいってるとこを聞かれるのはなんかヤダ。これは僕の過去の体験に起因しているんだろうとは思うが(あれは小学校のころだった……詳しくはまたいつか話したい)、結局、僕は(誰にも迷惑をかけず)静かに生きていたい人間なのだ。
図書館でまわりの人の迷惑にならないよう、静かにしておく。そんな感覚で僕は、日常生活を温厚に過ごしてきた。集中している人間の気を紛らせたくないから。
ところで。
先日「視線のエロス」(フランス 1997)という映画を見た。
不倫の話なのだが、これの主人公がすごい。
22歳の愛人に彼氏がいることを聞いたら、「別れてくれ」といい、
愛人が「中途半端は嫌だ。だから奥さんと別れて」といったら「妻は君には関係ない」といい、
家に押しかけ、「入れないと騒いで近所中を起こすぞ」と愛人を脅し家に入ったり、
愛人が「妊娠したらどうする?」と心配そうに尋ねたら、「しやしないさ(だから生で)」と根拠なく言い放つ。
妻に浮気がばれたときは、愛人に「君を愛しているが、今は妻と一緒にいたい」
愛人の恋人に浮気がばれ、愛人が主人公に別れ話を持ちかけたとき、「僕はどうなる?」
愛人が主人公の下を離れた後も、たびたび電話をかけ、「愛している」と留守電に録音し、
最後は「愛はつかの間。情熱はすぐに冷める。君といた日々がセピア色の追憶になることを恐れる」などと手紙に書き、
返事はいらない、と一方通行に思いのたけをぶつける。
はっきりいって手前勝手だと思うのは僕だけだろうか。
もし世界中の全ての女性がこういう男を望んでいるのだとしたら、僕は一生独身をつらぬくだろう。
正直ここまで手前勝手な人間になることは僕には出来ないし、なりたいとも思わないし、つばを吐きかけてやりたいとさえ思う。
(僕にとって)これは最低の人間像だ。
しかし。
「世の中は、手前勝手な人間が動かしていく」(ここでいう手前勝手とは、自己主張する人間のこと。自分の欲望や意志を貫いていく人間のこと)
これはおそらく、否定しようがない事実だと思う。
まわりに迷惑をかけないように気を配って、まわりのことだけを考えていて確固たる成果をあげる人間なんて、ほんの一握り……いや、ほんの一握りもいるかどうかわからない。
上記の映画だって、愛人を愛するがゆえに、愛を貫いたがゆえに、あーゆー言動に出たとも考えられるのだ。
そして得てして、手前勝手な人間の生き様は絵になる。彼らの人生は人の心をうつ。
だから何がいいたいのかと言うと。
今、まわりのことばかり考えて、自分の可能性を押し殺している人たちは、“もっと手前勝手に生きるべきだ”ということだ。(自分を含めて)
おそらく彼らは、自分の声に自信が持てないのだろう。(僕は、自分の声に自信が持てなかった!今も……だけどね)
確固たる信念(目指すもの)がないから、何をしても上手くやれないから、まわりに迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいいと考えているのではあるまいか。
正直言って、その考え方はとても高貴なものだと思う。みんながまわりの人間のためを思って、まわりの人間に尽くして生きていけば、人はきっと共存することができる(日本、韓国、中国、全世界全て)のだから、「迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいい」という考え方は、社会が平和に共存していくためには最も必要な意志のひとつに違いない。
けれどもそうして社会に尽くしても、僕たちの名前は後世には残らない。(生存証明は、できない)
何世紀も先まで僕たちのことを覚えていてくれる人は、誰もいない。たとえ家族であっても。
(僕はひいひいばあちゃんのことをまったく知らない)
だから僕たちが自分の存在した証を残すためには、世の中で声を大きくして「僕はここにいるよ!」と叫ばなければならない。
まわりの人の集中を切らさないよう、黙りこくって、気を遣うのではなく、手前勝手に、身勝手に、高らかに叫ばなければならない。
CRY MORE!!
ようはもう思い切り、手前勝手に生きてみようぜ。ということ。
自分へのいましめだっ。
ツッコミ、感想などなど、なにか一言ありましたらどうぞ!
木曜日にレスします!
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しかしその途中で、毎度毎度のこと――人生で幾度過去のような体験があったように思う――ながら、自分の小心っぷりにほとほと愛想が尽きたりもする。
それは、ジョギング中の呼吸音。
一人で走っているときはいいんですが、前からおじいさんやおじさんが走ってきてすれ違うとき、前を歩いているおばあさんを追い抜くとき、自分の呼吸音が相手に聞こえてるかと思うと恥ずかしくなって、早く抜き去ろうと足取りを速め、ペースを乱し、結果疲労がどっと出て歩き始める……こんなことが二回ほど(三回目以降はこれみよがしに呼吸音をアピールした。聞こえるか俺の鼓動、みたいな感じで)。
正直、ジョギングしてるんだから、呼吸が荒くなるのは当然っちゃ当然だし、呼吸が荒くならないで走ってるやつがいたらお目にかかりたいもんなんだが、それでも周りの人にゼエハアいってるとこを聞かれるのはなんかヤダ。これは僕の過去の体験に起因しているんだろうとは思うが(あれは小学校のころだった……詳しくはまたいつか話したい)、結局、僕は(誰にも迷惑をかけず)静かに生きていたい人間なのだ。
図書館でまわりの人の迷惑にならないよう、静かにしておく。そんな感覚で僕は、日常生活を温厚に過ごしてきた。集中している人間の気を紛らせたくないから。
ところで。
先日「視線のエロス」(フランス 1997)という映画を見た。
不倫の話なのだが、これの主人公がすごい。
22歳の愛人に彼氏がいることを聞いたら、「別れてくれ」といい、
愛人が「中途半端は嫌だ。だから奥さんと別れて」といったら「妻は君には関係ない」といい、
家に押しかけ、「入れないと騒いで近所中を起こすぞ」と愛人を脅し家に入ったり、
愛人が「妊娠したらどうする?」と心配そうに尋ねたら、「しやしないさ(だから生で)」と根拠なく言い放つ。
妻に浮気がばれたときは、愛人に「君を愛しているが、今は妻と一緒にいたい」
愛人の恋人に浮気がばれ、愛人が主人公に別れ話を持ちかけたとき、「僕はどうなる?」
愛人が主人公の下を離れた後も、たびたび電話をかけ、「愛している」と留守電に録音し、
最後は「愛はつかの間。情熱はすぐに冷める。君といた日々がセピア色の追憶になることを恐れる」などと手紙に書き、
返事はいらない、と一方通行に思いのたけをぶつける。
はっきりいって手前勝手だと思うのは僕だけだろうか。
もし世界中の全ての女性がこういう男を望んでいるのだとしたら、僕は一生独身をつらぬくだろう。
正直ここまで手前勝手な人間になることは僕には出来ないし、なりたいとも思わないし、つばを吐きかけてやりたいとさえ思う。
(僕にとって)これは最低の人間像だ。
しかし。
「世の中は、手前勝手な人間が動かしていく」(ここでいう手前勝手とは、自己主張する人間のこと。自分の欲望や意志を貫いていく人間のこと)
これはおそらく、否定しようがない事実だと思う。
まわりに迷惑をかけないように気を配って、まわりのことだけを考えていて確固たる成果をあげる人間なんて、ほんの一握り……いや、ほんの一握りもいるかどうかわからない。
上記の映画だって、愛人を愛するがゆえに、愛を貫いたがゆえに、あーゆー言動に出たとも考えられるのだ。
そして得てして、手前勝手な人間の生き様は絵になる。彼らの人生は人の心をうつ。
だから何がいいたいのかと言うと。
今、まわりのことばかり考えて、自分の可能性を押し殺している人たちは、“もっと手前勝手に生きるべきだ”ということだ。(自分を含めて)
おそらく彼らは、自分の声に自信が持てないのだろう。(僕は、自分の声に自信が持てなかった!今も……だけどね)
確固たる信念(目指すもの)がないから、何をしても上手くやれないから、まわりに迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいいと考えているのではあるまいか。
正直言って、その考え方はとても高貴なものだと思う。みんながまわりの人間のためを思って、まわりの人間に尽くして生きていけば、人はきっと共存することができる(日本、韓国、中国、全世界全て)のだから、「迷惑をかけず最低限の仕事だけをすればいい」という考え方は、社会が平和に共存していくためには最も必要な意志のひとつに違いない。
けれどもそうして社会に尽くしても、僕たちの名前は後世には残らない。(生存証明は、できない)
何世紀も先まで僕たちのことを覚えていてくれる人は、誰もいない。たとえ家族であっても。
(僕はひいひいばあちゃんのことをまったく知らない)
だから僕たちが自分の存在した証を残すためには、世の中で声を大きくして「僕はここにいるよ!」と叫ばなければならない。
まわりの人の集中を切らさないよう、黙りこくって、気を遣うのではなく、手前勝手に、身勝手に、高らかに叫ばなければならない。
CRY MORE!!
ようはもう思い切り、手前勝手に生きてみようぜ。ということ。
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